Masuk珠希を懲戒解雇処分にしてから、もうじき一か月が経とうとしていた。窓越しにも蝉の鳴き声が響く、うだるような猛暑の日。
直人は激昂していた。「いつまで待たせるつもりだ、再提出の期限はもうすぐだろ!」
会議室でデザイン部長から進捗報告を受けた直人は、提出された資料を机へ叩きつけた。
一月も下旬に入った朝、ルリカは出産のために入院した。 付き添ってきた直恵は、足りない荷物を取りに乾家へ戻っていた。出産まではまだ時間がかかると聞いて、着替えなども持ってくるつもりらしい。 個室のベッドで、枕元に置いたスマートフォンへ手を伸ばす。直人からは、商談を終えたらすぐに向かうと連絡が来ていた。何かあったら電話しろ、とも書かれている。 返事を打ちかけたとき、下腹部がぎゅっと締まった。 「……っ」 ルリカは端末を置き、シーツを掴んだ。看護師に教わったように、ゆっくり息を吐く。先ほどまでは話せる程度の痛みだったのに、次の痛みが来ると、声を出すのも難しかった。 痛みが引いてから、もう一度、画面を確かめた。 実家の両親、そして直人と直恵とは別に、入院したことをもう一人にだけ知らせてあった。そちらからは、まだ返事が来ていない。 ――忙しいのかな。 いつものように、既読の印だけがついている。それでも、何度もスマートフォンの画面を開いてしまう。 控えめに扉が叩かれたのは、そのときだった。 「入るよ」 ルリカは、ぱっと顔を上げた。 「悠乃介……!」 「やっほ」 扉の向こうから、人懐っこい笑顔が覗いた。コートを着た悠乃介が、後ろ手に扉を閉める。 「来てくれたの?」 「来て、ってそっちが言ったんでしょ? で、どう? やっぱり痛いの? それって」 もの珍しそうに腹部を指さしてきた悠乃介に、ルリカは得意げに笑った。 「うん、これが俗にいう陣痛かぁって感じ。けど、大丈夫。まだ、産まれるまで時間かかるみたいだよ」 ルリカは乱れた髪を耳にかけた。化粧もしていない。せめて、顔だけでも洗っておけばよかった。 悠乃介はベッド脇の椅子へ腰を下ろし、鞄を膝に置いた。 「乾直人は?」 「まだ仕事。連絡はしたけど。あとで来るって」 「なるほど。じゃあ、少し話せるのかぁ」 少しだけでもいい。わざわざ自分のために、悠乃介がここまで来てくれたのだ。 ルリカは掛け布団の下で膝を揃え、彼のほうへ体を向けた。 「
一月も三週目に入った。 雪臣の風邪は治ったが、珠希との間に流れる空気は元に戻っていなかった。 午前中、デザイン部に顔を出した際に見せてもらった新ブランドの図案には、石や形の選択肢が増えていた。珠希は、受け持っている業務の合間にデザインを考えているという。 仕事の話なら、これまで通り目を合わせてくれる。雪臣も、以前と変わらず相談を重ねることができていた。 けれど、ジュエリーの話が済めば、珠希はすぐに席を立ってしまう。その背中を、今日も呼び止められなかった。 五階の窓から、どんよりと曇った空を眺める。何でもない顔をして社長室へ戻った。 + + + 十七時すぎ。帰宅しようと瀬原と一階へ下りたところで、雪臣は足を止めた。 「あ……」 ロビーに珠希がいた。これから帰るのか、自動ドアに向かって一人で歩いているところだった。 少し遅れて、雪臣の隣で瀬原も「あ」と声を漏らした。雪臣と珠希の姿を交互に見たあと、彼女が腕時計へ目を落とす。 「あー。雪臣さん。申し訳ありません。やり残した仕事がありました。本日は、お帰りください。ご自分で」 ひどく平坦な声だった。 ついさっき、今日の業務の確認は済んだと言っていたはずなのに。 「おい……」 雪臣が問う前に、瀬原は踵を返していた。 ここ数日、仕事の話を終えた珠希が席を立つたびに、瀬原と目が合っていた。長く共に仕事をしてきた、勘の鋭い秘書だ。何も言わないだけで、二人の様子が変わったことには気づいていたらしい。 ……タクシーなら呼べる。ポケットのスマートフォンへ手を伸ばしかけ、やめた。 珠希が自動ドアを出る。雪臣も少し遅れて外へ出た。まるで、こそこそと後をつけているようだった。 小雨が降り始めていた。 社長室に傘を忘れたことに、今さら気づく。取りに戻れば、珠希は先に行ってしまう。ただでさえ、この足では追いつけないのに。遠ざかっていく彼女の背中を見ながら、ぱらぱらと降る雨の中を進んだ。 横断歩道の手前で、珠希の水色の水玉模様の傘が止まった。信号が赤になっている。このままでは、追いついてしまう。
鉛筆を置き、絵にカバーを掛けた。ベッドに横になっても、とても眠れそうにはなかった。けれど、風邪で体力が落ちていたせいか、次に目を開けたときには窓の外が薄暗くなっていた。時計を見ると、半日近く眠っていたらしい。朝に比べて、体の重さはだいぶ引いていた。 ――タマは、どうしているだろう……。 目が覚めたのだから、話しに行かなければ。そう思いながらも、ベッドの縁に座ったまま動けずにいた。何を謝るべきかは分かっている。ただ、彼女がどんな顔で自分の話を聞くのかと考えると、二の足を踏んでしまう。 そうこうしているうちに、気の抜けるような腹の音がした。……昼も食べていない。何か少し、口にできるものはないだろうか。珠希と顔を合わせる前に、三板から何かもらえないか。そんな情けないことまで考えていた。 自室のドアを少し開ける。隙間から覗いても、二階に三板の姿はなかった。階下からは、煮物の匂いが漂ってくる。三板が何か作っているのだろうか。 匂いに誘われるように、杖を手に階下へ下りた。台所には明かりがついていた。そちらへ顔を向けると、鍋の蓋を持った珠希と目が合った。 「あ……」 雪臣は足を止めた。珠希も、そのままこちらを見ていた。 「……具合は、平気?」 「……ああ。その、なにか、食べたい」 「じゃ、用意する。これ、肉じゃがだけど、大丈夫?」 雪臣が頷くと、珠希が鍋に蓋を戻した。台所に三板の姿はなかった。雪臣が周囲へ目を向けると、彼女が続けた。 「三板さんは、さっき本邸へ行ったの」 掃除と下準備を済ませた三板に代わり、あとは珠希が引き受けたという。雪臣が起きたら、食事がとれそうか聞こうと思っていたらしい。 ダイニングの椅子に腰を下ろすと、コンロの前で鍋の火加減を調整する珠希の姿が見えた。 ……何も言わずに食べて戻るわけにはいかない。膝の上で、右手を握った。 「タマ……今朝は、申し訳なかった」 珠希が振り返る。 謝ればすぐに理解してもらえるなどとは思っていない。珠希は何も返さず、こちらを見ていた。雪臣は握った手を緩め、頭を下げた。 「きみを傷つけた」 顔を上げると
珠希がリビングへ戻ったあと、雪臣は昇降機に腰を下ろした。 左手の杖を持ち直し、右足の位置を整える。椅子がゆっくりと動き始めても、階段の前に立っていた珠希の顔は、頭から少しも離れなかった。 座ってしまえば、いつもと同じだった。これまでも、この椅子には何度も助けられている。風邪をひいているならなおさら、自力で階段を上るより楽なのは分かっていた。 ただ、好きな女性の前でどうしても座りたくなかった。 ――いい加減にしてくれ……! 自分の声を思い出す。あんな声を出すつもりではなかった。珠希を責めようなど、これっぽっちも思っていなかった。ただ、もうそこには触れないでほしくて、胸の痛みに耐えきれなかった。こちらを見たまま動かなくなった彼女に、『できることまで奪わないでほしい』とまで言った。 彼女は、雪臣から何かを奪おうとしたわけではない。きっと、今朝、温かい飲み物を差し出してくれたときと同じ気持ちだった。それなのに、あんな態度をとられて、彼女にはどう映っただろう。 嫌な思いをさせたに決まっている。 二階に着き、昇降機から立ち上がっても、すぐには足が進まなかった。 ――また我慢させてるのかなって、だから、怖かったの……。 珠希のあの言葉に、何も答えられなかった。 大きな声を出したことだけを謝り、それで終わりにしてしまった。彼女の頬に触れてしまったあの夜と同じだ。また、逃げたのだ。 自室に入り、扉を閉める。休むために上がってきたはずなのに、ベッドへ向かう気にはなれなかった。イーゼルの前で足を止め、掛けていたカバーを外した。 描きかけの珠希が、そこにいた。 椅子に腰を下ろし、杖を脇へ置く。イーゼルの隣の台から鉛筆を取り、まだ描き込んでいない服の袖に線を足した。手首の近くにできる布の皺を、一本ずつ重ねていく。 ……今朝も、珠希が隣にいてくれて嬉しかった。平日の夜は、帰宅しても長くは話せない。今日は何をしたのか。そんなことを聞いているうちに、もう休む時間になる。 でも今日は、一緒にいられると思っていた。 鉛筆が止まる。紙の中の珠希を見ていると、泣きそうな顔で膝掛けを胸元へ引き寄せた
― 11月の連載予定日 ―(曜日)月・火・木・金・土・日 ●21時37分(日本時間)頃 ●各1話ずつ更新されます。水曜日はお休みです。ぜひ、お楽しみくださると嬉しいです。 花絵 ユウキ
休日の朝。雪臣が少し咳をしていた。 「雪臣くん、風邪かな」 「……少し、だるい」 「熱、測ってみる?」 体温計の数字は、三十七度を少し超えていた。朝食の量もいつもより少なく、食べ終えたあとも、彼はソファに背を預けたままだった。 三板が食材の買い出しに出かけると、珠希は台所で湯を沸かした。 「温かいの、飲めそう?」 「ああ。申し訳ない」 差し出した青いマグカップを、雪臣が両手で受け取る。いつもよりゆっくりと飲む彼を見ながら、珠希も隣に腰を下ろした。今日もニットの袖口から、左手のマリッジリングが覗いている。 珠希も自分のマグカップに両手を添えた。こんなふうに、何もせず一緒に過ごせるだけで、心地よいと思ってしまう。 けれど九月になれば、そんな時間も終わってしまうのだ。 だからこそ、今、雪臣の隣にいられるこの瞬間を大切にしたい。 今日は二人とも家にいる。平日のように、夜遅く帰ってきた彼とほんの少し顔を合わせるだけの日とは違う。具合が悪いのは心配だが、そばにいて、必要なものを用意するくらいはできる。 「何かあったら言って。今日はゆっくりしてようね」 雪臣はカップから顔を上げ、こくりと頷いた。それを見て、珠希は微笑んだ。昨日の洋食屋からの帰り道以来、また少し話しかけにくくなっていた。けれど今朝は、雪臣とときどき目が合った。 膝掛けを渡すと、雪臣はまた「申し訳ない」と言いながら、それを広げた。 雪臣のマグカップが空になれば受け取り、窓から日が差せば、眩しくないかと尋ねる。雪臣が咳をするたびに、珠希は読んでいた本から顔を上げた。 「タオルも、ここに置いておくね」 「……ああ」 彼の顔を覗き込む。視線が交わると、雪臣は何か言いかけたようだったが、そのまま黙ってタオルへ目を移した。まだつらいのだろうか……。もう少し早く、体調の変化に気づいてあげられたらよかった。 やがて、雪臣が膝掛けを畳んだ。 「もう、部屋で休む」 「うん。横になったほうがいいよ」 珠希は立ち上がり、膝掛けを受け取った。雪臣も杖をついて腰を上げる。彼が右足を踏







